6月12日以降より和洋2点プラン《三渓園ロケ&大さん橋ロケ》145,000円
6月12日以降より和洋2点プラン《三渓園ロケ&大さん橋ロケ》145,000円(税込み)申請料含む・差額無し・商品2点含むがスタート
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今年の秋に挙式や披露宴をご検討のカップルの前撮りにはかなりの朗報ですね!!
真夏になる前にロケーション撮影を済ませて、ウェルカムボードなどの披露宴で使いたいものを作っておけば、あとは披露宴の準備に集中できるので、披露宴直前に『とりあえず前撮りしとかなきゃ‼』と焦らなくていいですよね。
いい季節に、ゆったりと、自分らしい写真をきちんと残しておくのが披露宴準備期間中の前撮り撮影のポイントです!!
現在では挙式や披露宴を行う7割以上のカップルが前撮りや、後撮りでウェディングフォトを実施しているほど、一般的になってきましたね。
前撮りの実施の大きな理由の一つとして
【結婚式披露宴では着ない衣装で写真を残せる】という点がります。
多くの花嫁が挙式や披露宴ではウェディングドレスを着用することが多い中披露宴で和装姿をお披露目するには、金額や披露宴の時間などの理由により難しい場合が多く、前撮りを利用して和装姿の写真を残すようになりました
日本の伝統的な和装での結婚式が少数であることはさみしい感じはしますが、
和装の花嫁姿もしっかりと記念に残し一生に一度の大切な結婚の思い出として残しておきましょう。



↓↓日本人にとって『和服』とは↓↓
服(わふく)とは、日本在来の衣服のことで、近年では日本における民族服ともされる。着物(きもの)ともいう。洋服の対義語としても用いられます。
和服という用語
「和服」は、文字通り「和」の「服」、すなわち日本の衣服という意味である。
この言葉は明治時代に、西洋の衣服つまり「洋服」に対して、「従来の日本の衣服」を表す語として生まれたレトロニムです。
服飾史学者の小池三枝によれば、「着物」は元来「着る物」という意味であり、単に「衣服」を意味する語でありました。
しかし幕末に洋服が移入して以降、「西洋服」・「洋服」と区別して、「従来の日本の衣服」を(レトロニムで)「日本服」・「和服」と呼ぶようになり、さらに「着物」の語にも置き換えられるようになりました。
時代が進み、日常生活で頻繁に洋服が用いられるようになると、「着物」から「着る物」という本来の意味は薄れていき、「和服」の意味が濃くなっていった。現代での「着物」という語は専ら「和服」を意味し、狭義には一定の形式の和服(着物と羽織という場合の着物、つまり長着)を指す言葉に移りつつあります。
それと同時に、「洋服」が「着る物」の意味で使われるようになった。
日本で和服という言葉が生まれる明治時代よりも前の16世紀の時点で、日本人が衣服のことを指して呼んだ着物 (kimono)
が、現在で言う和服を表す語としてヨーロッパ人に知られるようになり、現在ではヨーロッパに限らず世界の多くの言語で日本で和服と呼んでいる物を
kimono と呼んでいます。
kimono は、日本の和服だけではなく、東アジア圏全般で見られる前合わせ式の服全般を指すこともあります。
明治大学政治経済学部教授で文学者のマーク・ピーターセンの解説によると"kimono"は「和服」ではなく「着物風の婦人用化粧着」というものを表わす英単語として使われ、さらに「着物姿の」という意味で"kimonoed"と単語の活用がなされる場合があります。
呉服という呼び名については、これは和服用の織物の呼称の一つで、特に絹織物を指す語であります。
もともとは絹織物を指す語として、綿織物・麻織物を指す「太物(ふともの)」と区別されていたが、現在は和服用の織物の総称としても使われている。
もともとは絹織物を指す語として、綿織物・麻織物を指す「太物(ふともの)」と区別されていたが、現在は和服用の織物の総称としても使われている。
そもそも衣類を大きく分類すると、懸衣型(けんいがた)、寛衣型、窄衣型(さくいがた)の3種に大別できます。
懸衣型とは布を裁断したり縫ったりすることなく、身体に懸(か)けたり巻いたりするだけで成り立つ衣服です。
寛衣型とは緩やかなワンピース形式の衣服です。
窄衣型(さくいがた)とは、身体にぴったり合うように(曲線的に裁断したり縫ったりして、立体的に)「仕立てた」衣服です。
これら3種がさらにそれぞれ2種類に分類されているので、それらの関係を以下に示します。
つまり、和服は「寛衣型」の中の「前開き服形式」の衣服です。
長着を身体にかけ、帯を結ぶことによって着つけます。
洋服は曲線で裁たれたパーツを組み合わせ、立体的な身体に沿わそうと造形されるのに対し、和服は反物から直線で切り取ったパーツを縫い合わせた平面構成により造形されています。
明治時代になると、明治維新により「殖産興業」という政府の産業育成の動きも手伝って、近代的な絹の製糸工場が建設され、絹の生産量が一層高まりました。
日本は開国したため国外との貿易が発展し、絹糸(生糸)と絹製品の輸出額は全輸出額の内大きな割合を占め、世界的に日本は絹の生産地と見なされるようになりました。
絹糸の大量生産に伴って、絹は他の商品と比べてそれほど高価ではなくなり、女性の和服に様々な種類の生地が用いられるようになりました。
それに伴い絹織物も、縮緬・綸子・御召・銘仙など種類が増えました。
出来上がった生地は染色技術の発達により二次加工され、今までにない友禅文様が可能になりました。
絹の小紋染めの流行は、江戸時代から引き続き、伝統的な晴着としてはやりましたが、あらかじめ先染めの糸で文様を織り出した縞や絣も好まれました。
明治時代以降、華族(大日本帝国憲法下での貴族制度)や西洋人と接する機会の多かった人々の間では比較的早く洋服が定着しました。
政府の要人の場合は、洋服を着ることにより、日本が西欧の進展した科学技術を習得し近代化を目指す意欲を西洋の外国人にアピールし、交渉などを有利に進める目的があったといわれています。
庶民は、洋服がまだ高価だったことや、伝統への美意識や執着などから江戸時代以来の生活の様式を保持し続けました。
西洋からの服飾の輸入がなされ、間もなく日本国内でも洋服が作られるようになりました。
以前は日本在来の衣服を「着物」と呼んでいたが、元々着物には服という意味しかありません。
そこで洋服と区別するために、以前「着物」と呼んでいた服を「和服」と呼ぶようになりました。
洋服が登場し始めた頃は、貸衣装屋から洋服を借りて着用するのが普通でした。
明治時代には洋服は主に男性の外出着や礼服であり、日常はほとんど和服が使用されました。
小規模ながらも各地に洋服の貸し出し店や洋服販売店ができるようになりました。
女性は和服が主で、宮中でも小袿や袿袴でした。
1871年(明治4年)に陸軍や官僚の制服を西洋風に改めることを定めた明治天皇の勅諭(太政官布告399号「爾今禮服ニハ洋服ヲ採用ス」)が発せられた以後、警察官・鉄道員・学校教員などが順次服装を西洋化していきました。
男性は、軍隊では軍服の着用が義務付けられましあtが、このときの軍服は洋服でした。
また陸軍の軍服を規範に作られた詰め襟の洋服である学生服が男子学生の制服として採用されました。
1881年(明治14年)に勅任官、奏任官の夫人に対し袿袴の制に定められ、大正期末頃までは袿袴を着用する人が多くありました。
臣下の女性にとって洋服は高価なためでした。
明治・大正時代には、女学生の間に行灯袴などの袴姿が流行しました。
これが日本文化として定着し、現在でも、入学式・卒業式などで、袴を正装の一部として好んで着用されています。
女性は華族や女子教育にあたる教員など一部を除きもっぱら和服でありましたが、
大正時代後期から、女学校の制服にそれまでの袴に代えて洋服であるセーラー服が採用される例が増えました。
この頃、日本の女性の衣服を洋服に変えていこうと主張・運動する女性達がいました。
1922年(大正11年)5月4日から11日までに開かれた生活改善講習会において、塚本はま子は「衣服の改善」という題の講習の中で、「現代社会に適合した美的且つ便利、経済的な改善を斬新的に行っていくこと。
方向としては洋服のみの生活を示唆している」と述べ、また嘉悦孝子は『經濟改善 是からの裁縫』(けいざいかいぜん これからのさいほう、日本服装改善会出版部、1922年)の序文で「私は日本服装改善の到達点は、洋服か洋服に近いものであらうと存じます」と書いています。
1923年(大正12年)の関東大震災では、身体の動作を妨げる構造である和服を着用していた女性の被害が多かったことから、翌1924年(大正13年)に「東京婦人子供服組合」が発足し、女性の服装にも西洋化が進むことになりました。
男性の洋装は正式なものとして認められたが、女性の洋装化はすすみませんでした。
当時衣服は家庭であつらえるものでしたが洋裁の知識はまだ普及しておらず、社会の洋風化に洋服の供給が追いつかなかったためでした。
一方で女性の社会進出も進み、普段着とは違う「外出着」の需要が高まりました。
また、身分制度の撤廃に伴って庶民に課せられていた衣料素材の制限がなくなったことから、和服においても、それまで無地や地味な色の縞模様などばかりでしたが、大正末期から昭和初期にかけて、華やかで自由な色柄のものが広く着用されるようになりました。
第一次世界大戦後の国内の好景気も相まって、金糸や銀糸、漆糸を用いたものも登場しました。
1881年(明治14年)から1945年(昭和20年)頃まで、日本の女子教育では、和服などの布製品を作るための裁縫の授業が必修課目でした。
家中の着物や布団などを仕立て、繕うことは、家庭において女性が担う重要な家事とされていたため、女性には和裁の基本的な技術が必須とされたためでした。
1935年にアメリカ合衆国のデュポン社は、ナイロンという化学繊維を合成することに成功し、1939年頃からナイロンが工場で大量生産されるようになりました。
ナイロンは絹の代替品として使われたため、対外的な日本の絹糸・絹製品の輸出は減少していきました。
1939年(昭和14年)11月14日から同年12月10日まで、日本政府は男性用の国民服の様式の案を広く一般から懸賞を付けて募集しました。
応募された案の審査が行われ、意見交換や様式の変更がなされた後、1940年(昭和15年)7月6日、「奢侈品等製造販売制限規則」が公布され、同年7月7日に施行されました。
絵羽模様のもの、刺繍、金銀糸を使用したもの、紬でも高価なもの等が贅沢品とされ、禁止されます。これにより、白色の半衿が流行すしました。
1940年(昭和15年)11月2日に日本政府(当時近衛文麿首相、第2次近衛内閣)は、(昭和天皇の名で)「国民服令」という勅令(法律の一種)を施行しました。
その国民服令の中で、男性用の正装の衣服として、国民服を定義しました。
国民服は洋服である。国民服は、正装かつ礼服であり、背広服を着るような場面で着る服だと決められました。
それ以外のときは、国民服を着る義務はありませんでした。
結婚式の新郎が正装するときや葬式に出席するときは、男性は国民服で礼装しました。
国民服は民間業者により大量生産され、国民服配給会社により配給されました。
裕福な男性の中には個々の体型に合わせて採寸して国民服が仕立てられたこともありました。
大日本国民服協会は、国民服の日本国民への普及を目的とし、『国民服』という定期刊行物を出版、配布しました。
1945年(昭和20年)の終戦までの間、生産される男性用の衣服は国民服ばかりになっていた上、本土決戦の機運が高まり、強制されなくても国民服を着ざるをえない男性が増えていきました。
また、日米開戦翌年の1942年(昭和17年)に厚生省(現在の厚生労働省)は、女性用の新しい様式の服を婦人標準服と名付けて発表しました。
この目的の1つは、材料の布の節約でした。婦人標準服に関する公的な文書として残されているのは、婦人標準服を定める前に書かれた次官会議諒解事項「婦人標準服制定に関する件」だけです。
これは、どのようなデザインの婦人標準服が望ましいのかが書かれている文書であり、具体的なデザインを決めた文書ではありません。
6番目の項目には、「婦人標準服の制作が各家庭で行われることを前提にして、婦人標準服のデザインを決めるべきである」という旨の記述があります。
婦人標準服には、洋服の特徴を持つ「甲型」というタイプと、和服の特徴を持つ「乙型」というタイプがあり、それぞれに、いくつかの様式の服の形が決められました。
甲型には、上半身を覆う服とスカートに分かれている様式と、裾がスカート状のワンピース型の様式がありました。
乙型の様式の1つに、和服を上半身と下半身に分けて、袖丈を短くしたものがありました。
これは、上下に分かれたツーピース型の和服です。
「活動衣」と呼ばれる実用性を最優先させた様式もあり、甲型の下半身はスラックス型で、乙型の下半身は、もんぺです。
もんぺは袴の一種で、1930年代頃までは、北海道・東北地方で、防寒用、農作業、または普段着として使われていました。
もんぺの腰の部分にゴム紐がないのは戦争のせいでゴムが足りなくなったからだという説があるが、元々もんぺはゴム紐ではなく布の紐で腰を結ぶ服でした。
婦人標準服は、国民服のように大量生産されることも、大量に配給されることもなく、各家庭で余剰布や古着を原料として、自家裁縫で婦人標準服に作り替え、自身や家族の服として着るという形でした。
着用や制作が強制されることはなく、各家庭の判断に委ねられていました。
そのため、婦人標準服とは少し違う個性的なデザインの服も作る人もいました。
婦人標準服はほとんど普及しなかったが、1940年(昭和15年)頃から、女性が家の外で作業するときに、もんぺが政府から推奨される機会は徐々に増えていきました。
防空演習への参加時には、女性はもんぺなどの活動的な衣服の着用が推奨されたため、多くの女性が参加時にもんぺを着用しました。
米軍が日本本土の上空から、民間人をも攻撃対象にして空襲を行う頻度が多くなり、1945年(昭和20年)の終戦前頃は、地域によってはほぼ毎日、空襲による被害を受けるようになっていました。
民間人が空襲の被害を受けることが多くなるにつれて、多くの女性がもんぺまたはスラックスを履くようになりました。
中山千代が、『日本婦人洋装史』で次のように書いている。「筆者の戦時生活体験にも、婦人標準服は甲型も乙型も着用しなかった。周囲の女性たちも同様であって、標準服両方の着用は、ほとんど行なわれていません。
政府の意図した婦人標準服による日本精神の具現は、成功しませんでした。
しかし、日本本土空襲が始まると、すべての女性はズボンまたはモンペを着用しました。
これらは婦人標準服の『活動衣』に指定されていたが、婦人標準服として着用されたのではありませんでした。
決戦服と呼ばれたように、絶体絶命的に着用しなければならない服装でした。」
1943年(昭和18年)6月4日に、戦時衣生活簡素化実施要綱が日本の政府(当時東條英機首相、東條内閣)で閣議決定されました。
本要綱の目的は、日本の国民の衣服を簡素化することと、繊維製品の使用の無駄を省き節約することでした。
本要綱そのものは、法的な強制力がない努力義務のガイドラインのようなものであるが、後に戦時衣生活簡素化実施要綱を推進するための法律が制定されます。
本要綱では、男性用の衣服を新しく制作するときは、色は自由とし、形は、国民服の乙号のタイプか、これに似たものに限定することとしました。
男性の小学生以外の学生・生徒の制服を新しく制作するときは、国民服の乙号を作ることとしました。
男性の小学生の制服は規制しないこととしました。
専門学校以上の女性の学生・生徒の制服を、なるべく婦人標準服に変えてもらうよう働きかけることとしました。
華美を追求しないものの、女性の美しさを失わない婦人標準服が、大人の女性達の間で普及するように、政府が努力することとしました。
しかし、大日本婦人会が定めた「婦人の戦時衣生活実践要綱」は、新調見合せ・婦人標準服着用・衣料切符の節約などの内容が盛り込まれています。
戦争が長期化するにつれ、衣料切符で新品の衣類を入手することは、極めて困難になっていきました。
1943年(昭和18年)6月16日に日本の政府(東條内閣)は、1940年(昭和15年)11月2日制定の国民服令を緩和する国民服制式特例という勅令を(昭和天皇の名により)施行した。国民服制式特例の第1条により、礼装しない場合の国民服の上衣の色の指定はなくなり、礼装する場合の国民服の上衣と外套の色は、茶褐色、黒色、濃紺色、または白色のいずれかでよいとされた。ただし、上衣と外套の白色を選べるのは暑い地方や暑い夏の時期に限られました。
この頃には大日本婦人会が「女は元禄、男は筒袖」をスローガンとして、着物の袖丈を短くする運動を行いました。
1944年(昭和19年)10月30日に小磯内閣(小磯國昭首相)下で、皇室令8号「女子の宮中新通常服」で宮中服を制定。元禄袖の上衣に行灯袴、足元はパンプス。海外からの輸入が禁止され洋服生地が入らなくなり、無地の和服地で上下が一反分で作れ、帯が無く簡単に着られました。1940年(昭和15年)の男子の国民服が制定、1942年(昭和17年)の婦人標準服として腰丈の着物ともんぺが制定され、国民と共にある皇室で国民生活に配慮し宮中服が考案されました。皇族妃以上は紋緞子、女官以下は綸子を礼装に、平常時は皇族妃も紋綸子または洋服地としました。
第二次世界大戦が終わった1945年以降の女性達は、空襲がなくなったので、所持していたが着られなかった和服を着るようになっていきました。
終戦直後にはもんぺを着る女性も多くいたが、貧しさと戦争を思い出させるもんぺはすぐに廃れていきました。
第二次世界大戦後も時世に配慮し宮中服は続き、1951年の貞明皇后の崩御時も香淳皇后以下の妃は黒の宮中服で臨みました。
その後、打掛のような「お掛け」が香淳皇后から直宮の3妃に送られ、新年祝賀の行事は白羽二重の着物の上に、帯留なしで少し細い丸帯を文庫結びし、その上から「お掛け」を羽織り、手には象牙の扇子を持たれる礼装が続きました。
1954年7月1日「内閣及び総理府関係法令の整理に関する法律」により、宮中服、お掛けなど戦中の服制を含む明治以来の服装令は廃止されました。
しかし、和服が高価であり着付けが煩わしいことなどが原因となってか、安価で実用的な洋服の流行には敵わず、徐々に和服を普段着とする人の割合は少なくなっていきました。
ただし、1965年から1975年頃までは、和服を普段着として着る女性を見かけることが多かった。その頃に和服の需要を押し上げ、流行させたのはウールで仕立てられたウール着物です。
ウール着物は色彩が美しく、カジュアルで気軽に着られる普段着の和服として日本中の女性の間で流行となりました。
しかし、その後も和服ではなく洋服を着る人の割合が増え、呉服業界(呉服業界とは、和服・反物の生産・販売(呉服商等)の産業のこと)は不振に追い込まれました。
呉服業界が、販売促進の目的で、種々の場面で必要とされる和服の条件というような約束事を作って宣伝しました。
このため、庶民は「和服は難しい」というイメージをより強く持つようになった。この結果、呉服業界はさらに不振になり、反物など織物生産を担う業界の倒産が相次ぎました。
1960年代までは自宅での日常着として和服を着る男性も多く存在しましたが、(当時の映画・漫画などでの描写からもうかがえるが)、次第に姿を消してきました。
またこの頃にはモータリゼーションが始まるが、運転には不向きでした。
女性の和服は「おはしょり」(腰の部分の折り上げ)があるため身長の高低にあまり関係なく世代間で譲り渡すことができるのに対し、男性の和服は対丈(おはしょりを作らない)で着やすい反面、身長が合わないと他人から譲り受けることができません。
そのため、戦後世代の男性が戦前・戦中世代の和服を譲り受けることができず、日常着としても着られなくなりました。
1960年代の欧米の文化人やミュージシャンの間では、東洋的な思想や宗教が流行したことがあり、中には着物(あるいは着物など東洋の民族衣装に似せてデザインした前合わせの服)を着る者も見られました。
着物などに似せた東洋風の服は欧米では「kimono」と表記され、フランスやスペインでは「キ・モ・ノ」と発音されるが、英語では「カイモノ」「カィモノ」「カモノ」などと発音されます。
平成以降には日常的に和服を着る女性を見かける機会は少なくなりました。
嫁入り家具の引き出しに和服を入れて嫁ぐ風習も、2000年代以降は廃れつつあります。
夫婦共働きで女性が和服を着る機会も洋装で済ますので、昭和時代までは質草になった和服の需要が減少しました。
和服リサイクル業者の買取価格も、新品購入価格の100分の1以下に査定されるので、嫁入り道具に和服を持参する女性が少なくなりました。
ただし1990年代後期からアンティーク着物(昭和初期以前のもの)やリサイクル着物(昭和中期以降)を扱う店が激増し、雑誌を火付け役として女性の間で徐々に着物ブームが起こってはいます。
これまでと異なるのは、従来の約束事にこだわらず洋服感覚で着る人が増えたことです。
洋服地で着物や帯を作ったり、洋服と重ね着したり、足下にパンプスやブーツを履いたり、帯揚げにレースを使うなど新鮮な着こなしが楽しまれています。
また冠婚葬祭(お宮参り・七五三・成人式・卒業式・結婚式といった行事)に限れば着用する女性は多いです。
浴衣については、花火大会・夏祭りの衣装としては浸透しており、平成期になって柄・素材とも多彩になり、かつての「湯上がり着の延長」だった時代とは見違えるほど鮮やかでファッション性も高く、「ギャル浴衣」なども登場しています。
デパートなどは開放的な水着ファッションと、隠して魅せる浴衣という二本柱で夏の商戦を仕掛けています。
女児用の浴衣として浴衣の上着に膝丈スカートを合わせた浴衣ドレスというものが出てきました。
2018年の経済産業省による調査で、20歳代女性の73%が「着物を着てみたい」と回答するなど潜在的需要はあるものの、希望購入価格帯は「5万円以下」が最多で、着物販売業者の中心価格帯(10万-30万円)より低いです。
コンサルタントの分析によると、女性用振袖については「レンタル5割、購入3割、親から受け継ぐ娘が2割」程度であるといいます。
昔からあった古着店に加えてレンタルも広がっており、新品の着物を生産・販売する事業者は苦しい状況にあります。
企業がレンタル専用の在庫を持つ以外に、個人が持つ着物の他人への貸し出しを仲介するシェアリングも行われています。
ファッションとしての浴衣は男性にもある程度着られているが、女性ほど一般的ではないです。
また、日常的に和服を着る男性は、女性と比べて少なく、作務衣や甚平が仏教の僧侶などや職人など少数の男性に好んで着られているほかは、ほとんど見かけなくなっています。
一方で、男性の和服着用を推進する運動も、インターネットなどを中心に一部で起こっている。
上記のような状況に対応して、和服業界も、デニム生地など現代の生活で着やすいような伸縮・撥水性に優れた生地を使ったり、洋服や革靴と合わせやすいデザインにしたりする商品を開発・販売して、需要の開拓を図っている。
基本的に着物は手縫いで作られるが、近年では浴衣を初めとしてミシン縫製のものも増えている。和裁人口の減少により、従来の手縫いが要求される場合にはベトナムで縫製されることも増えています。
宮中では答礼晩餐会(リターンバンケット)や園遊会では(男性はドレスコードで、燕尾服やタキシードやモーニングコートなどの洋服、と定められているが)女性皇族は和服礼服を着られるが、(女性の衣服については)明治以来「洋服が和服より格上」という認識は変わっていない。
文化服装学院朝日真専任教授は「小学生の卒業式で袴がはやりだしたのは5年ほど前から(2019年当時)。大学の卒業式で袴が流行したのが1990年代そのころの女子大生の子どもが小学校を卒業するようになった最近のこと。」着物業界にとって 少子化により「成人式での需要」が減り、新たなターゲットが(制服のない)「小学校の卒業式」でした。
現在の和服には、大人の女性用・大人の男性用・子供用がある。男性用と女性用の和服のそれぞれに、正装・普段着・その間の服があります。
基本的に男女両用の和服はないが、本来男性用とされていた和服を女性も着るようになるという現象は歴史上しばしばあります。
羽織などは明治期以降一般化しているし、現代では法被や甚兵衛なども女性用がある。
女性用の正装の和服
正装用の着物は、原則的に結婚式・叙勲などの儀式・茶会など格の高い席やおめでたい儀式で着用されています。
戦後、マスメディアの発達に伴い、正装のルールが全国規模で統一され始め、合理化もされました。
例えば留袖や訪問着などの格の高い礼装は本来は丸帯であったが、現在丸帯は花嫁衣裳と芸者の着物に残るくらいで一般にはあまり用いられなくなり、戦後は主に袋帯が用いられています。
現代の格の高い正装用の着物には、絵羽模様(えばもよう)によって柄付けがなされています。
絵羽模様とは、反物を着物の形に仮縫いした上に柄を置くように染めた模様で、脇や衽と前身頃の縫い目、背縫いなどの縫い目の所で模様が繋がるような模様に染めたものです。
おめでたい場所に着る礼装用の着物の模様には、縁起の良いもの、七宝・橘・鳳凰・鶴・亀などの「吉祥模様」や、昔の貴族のような豪華で華やかな模様、檜扇・宝舟・貝桶・御殿・薬玉などを表した「古典模様」が使われていることが多いです。
あまり趣味性の強い柄は改まった席には向かないとされる。
【黒留袖】
既婚女性の正装。生地は地模様の無い縮緬が黒い地色で染められており、五つ紋(染め抜き日向紋)をつけます。
絵羽模様は腰よりも下の位置にのみ置かれている。
【色留袖】
黒以外の地色で染められた留袖です。
本来は既婚女性の正装であったが、最近では未婚の女性に着用されることも多いです。
生地は縮緬だけではなく、同じ縮緬でも地模様を織り出したものや綸子を用いることもあります。
黒留袖は五つ紋であるが、色留袖の場合五つ紋だけではなく三つ紋や一つ紋の場合もあります。
宮中行事では黒が「喪の色」とされており黒留袖は着用しない慣例になっているため、叙勲その他の行事で宮中に参内する場合、色留袖が正式とされています。
黒留袖は民間の正装とされている。
【振袖】
主に未婚女性用の絵羽模様がある正装です。
五つ紋を入れる場合と入れない場合があり、後者は格の高い場へ着用して行くのは望ましくありません。
袖の長さにより、大振袖、中振袖、小振袖があり、花嫁の衣装などに見られる袖丈の長いものは大振袖である。近年の成人式などで着用される振袖は中振袖となっている場合が多いです。
絵羽模様に限らず小紋や無地で表された振袖も多くあります。
【訪問着】
女性用(未婚、既婚の区別なし)の絵羽模様がある正装です。
紋を入れる場合もあります。
生地は縮緬や綸子・朱子地などが用いられることが多いですが、紬地で作られたものもありますが、紬はあくまでも普段着であるため、訪問着であっても正式な席には着用できません。
【付け下げ】
訪問着を簡略化したもので、絵羽模様ではなく、反物の状態のまま染色し、縫うと訪問着のような位置に柄が置かれるものです。
一見訪問着と同じようですが、訪問着との大きな違いは柄の大きさや縫い目での繋がりの他、八掛(裾回し)が表地と同じもの(共裾)ではなく、表との配色が良い別生地を用いている点です。
略式礼装に当たるため儀式などの重い席には着用されることが少ないですが、趣味性の強い柄付けや軽い柄付けの訪問着より古典柄の付け下げの方が格が上とされます。
一般的な付け下げは儀式ではないパーティーなどで着用されることが多い。
【袴】
女性用の袴は女学生や教師の正装の一つとされています。
明治・大正時代に、学校で日常的に着る服として女学生の袴姿が流行したことが、日本の文化として定着しました。
現在でも入学式・卒業式などの学校の儀式で袴は正装として着用されています。
【女性用の普段着の和服】
女性用の普段着には小紋・紬・浴衣などがあります。
【男性用の正装の和服】
なお、江戸初期まで武家の男性は婚礼において直垂または大紋、素襖を着用し、くだけた場でも裃を着ていました。
男性用の正装の和服には、五つ紋付、黒の羽二重地、アンサンブル、縦縞の仙台平などがあります。
紋が付いた服(紋付)を着用する場合、足袋の色は白にします。
草履を履くときは畳表のものを履きます。
履物の鼻緒の色は、慶事のときは白、弔事のときは黒にします。
小物の色も同様に、慶事のときは白、弔事のときは黒にします。
正装の度合いについては羽二重、お召、無地紬の順で格が下がります。
羽織を着るべき場面か、着なくてもいい場面かの判断は、洋服の背広やジャケットの場合に類似します。
なお、茶会では羽織は着用しません。
また、紋の数や種類によっても挌が決まるので正式な黒紋付として黒羽二重に紋を付けるときは、日向紋を5つ付けます。
無地お召や紬などにも紋を付けますが、この地で五つ紋をつけて正装として着ることはしないので、現在ではこの地の場合は染め抜きではなく陰紋として刺繍などで付けることが多く、その数も三つ紋か一つ紋になることが多いです。
現在の男性用の正装の和服を特徴づけるのは、長着、羽織、および袴である。アンサンブルは、和服の正式な用語としては「お対(おつい)」と言い、同じ布地で縫製 した長着と羽織のセットを指す言葉です。
しかし、長着と羽織に違う布地を使って、男性用の正装の和服として長着と羽織をコーディネイトした服をセットで「アンサンブル」と称して販売されていることは多いです。
正式な場所での男性の正装の着用には必ず袴を着用します。
男性の袴は「馬乗り袴」と言って洋服のズボンのように左右に脚が分かれているものが正式ですが、女性の袴と同じように分かれていないスカート状の「行燈袴」もあります。
厳密には袴にも夏用と冬用の区別はあるが、着物の袷のように裏を全体に付けることはないので地の薄さと密度によって区別されています。
現在ではあまりこの別を意識することはなくなっています。
正装として黒羽二重五つ紋付を着る場合、本来であれば長着の下に女性の留袖と同じく「白の重ね」を着るのですが、現在ではこの風習はあまり見られず花婿の衣装に「伊達衿」として白の衿をつけることに残っています。
男性用の普段着の和服
男性用の普段着の和服には色無地・浴衣・作務衣・甚平・丹前・法被(はっぴ)などが含まれます。
男性用の普段着の和服では、羽織は着なくてもよいです。
戦後ウールの着物の流行により、くだけた普段のくつろぎ着としてウールのアンサンブルが用いられるようになり、気軽な訪問には用いられるが本来であれば自宅用として着用するのが望ましいものです。
結婚式での新郎新婦の和服
江戸初期まで武家の男性は婚礼において直垂または大紋、素襖を着用した。また商家の女性であれば本来は懐剣や角飾りは不要です。
神道形式の結婚式における新郎と新婦は、花婿が紋付・袴を、花嫁が白無垢や色打掛を着用しています。
結婚式の和装としてのこの組み合わせは明治以後に一般的となりました。
↓↓創業以来続く華雅苑のコンセプト↓↓
【日本の文化・伝統をしっかりと残したい】
日本人の心の拠り所である神社や庭園で、とびきりの和装体験をしていただきたい。
そして、すばらしい和の文化を後世に残していただきたい。
そんな願いを胸に、長年、神社の婚礼業務に携わってきた弊社代表が、どこより早く始めた前撮りのロケーション撮影。
【どのお客様にもわかりやすい料金設定】
なるべく多くの方にご興味を持っていただけるよう、創業からプラン内容は明朗に。
前撮りに必要なものはすべてプランに含まれていますので、プラン料金から値上がりしません。
プランさえ決まれば、後は撮影を心から楽しんでいただくのみ。
ご相談から撮影当日まで、専属スタッフがしっかりご対応します。
【季節や場所の個性まで表現したい】
ホテルやチャペルでドレスを着用した挙式がスタンダードとなっていく一方、年齢に関わらず前撮りの定番となったのが和装です。
中でも季節の移ろいを感じる神社や庭園での撮影は、どこか清々しく心まで整うよう。
神聖な空気も一緒に映し出せるよう、ストーリー性のある構図、ポージング、光の取り入れ方などを考慮しながら撮影を進めていきます。
神社や庭園・スタジオという背景の中で、和装の美しさをどのように引き立てるか。
そしておふたりの魅力をどう表現するか。
年間平均1万組のカップルとお付き合いしてきた経験豊富なスタッフが対応させていただきます。
撮影にはご家族やご友人が同席されることも多いです。
おふたりの思い出の品を撮影小物として使うことも可能です。
【必ず写真データを含めています】
はにかんだ微笑みも、弾けるような笑顔も、ふたりだから残せる大切な記録です。衣裳1点につき100カットほど、いろんな表情を写した画像データは、すべてのプランに含まれています。
店舗に引き取りに来ていただく場合は、撮影の2日後にはお渡しが可能。
また、なかなか来店できそうにないという場合には、宅急便でのお届けも承っています。
お二人の希望の前撮りを実現するために
どんなことでも構いません
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