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旧神谷邸について

公開日:2023年4月23日(日)

今日のお写真は旧神谷邸です。

旧神谷邸について

旧神谷邸は、千葉県にある歴史的建造物であり、日本の近代建築の一つとして知られています。この別荘は、旧神谷家の当主であった傳兵衛が、自身の海水浴場として建設したものです。

建設は1918年に始まり、1921年に完成しました。設計者は、当時の日本を象徴する建築家である辰野金吾であり、辰野の弟子であった上村松園が内装を手がけました。建築物は、和風の要素を取り入れつつも、西洋的なデザインも加えられており、独自の美しさを持っています。

別荘は、総面積が約1,300平方メートルで、広大な敷地を有しています。建物の外観は、白い壁と赤い屋根が特徴的で、南側には、縁側とテラスがあり、海を眺めることができます。内部は、吹き抜けの大広間や、和室、客間、書斎、浴室、トイレなどが配置されており、落ち着いた雰囲気が漂っています。

傳兵衛が晩年を過ごした場所でもあります。傳兵衛は、自然と共に過ごすことを好み、庭園には様々な樹木や花が植えられています。庭園には、石造りの滝や池もあり、自然を愛する傳兵衛の趣味が現れています。

現在、旧神谷邸は、国の重要文化財に指定されており、一般公開もされています。建築物の美しさや歴史的な価値を知ることができます。

ここからは神谷傳兵衛についての説明です。

1856(安政3)年、神谷兵助の六男として三河国幡豆郡松木島村(現:愛知県西尾市一色町)に生まれた“神谷傳兵衛(かみやでんべえ)”(幼名:松太郎)。豪農の家に生まれながらも家が没落したため、幼くして働きに出ました。
転々と奉公する中で、酒を商いすることに興味を持ったのは、わずか8歳の時だったと言います。傳兵衛の姉の嫁ぎ先である尾張国知多地方(現:愛知県知多郡阿久比町)は古来から銘酒の産地として知られており、酒造家はみな裕福で豊かな生活をしていました。これを見た傳兵衛は、小さな胸に酒造家としての夢を膨らませました。

その傳兵衛が特に洋酒に興味を持ったのは、横浜の外国人居留地でフランス人が経営するフレッレ商会という洋酒醸造所で働いていた1873(明治6)年17歳の時。
持ち前の誠実な性格で経営者に可愛がられていた傳兵衛は、ある日原因不明の激しい腹痛に襲われ、衰弱の一途をたどりました。これを知ったフレッレ商会の経営者は傳兵衛を見舞い、持参した葡萄酒を飲ませました。

それを飲んだ傳兵衛はたちまち気分が爽やかになり、病苦が和らいでいきました。その後も毎日少しずつ飲用すると、次第に元気が出て、やがて病気はすっかり治ってしまったのです。 傳兵衛はこの時、葡萄酒が持つ滋養効果を知ったのでした。

傳兵衛は「極めて高価な葡萄酒は一般的に日本人には飲用されていない。日本人の誰もが飲めるような葡萄酒の国内醸造ができないものか。それを将来の本業にするのもよいではないか」と考えました。ここに、傳兵衛の運命は大きく変わったのでした。

傳兵衛は天性の商才があり、24歳で一人立ちし、1880(明治13)年浅草に「みかはや銘酒店」というにごり酒の一杯売りを開業しました。※後の神谷バーとなる

さらに、国内での洋酒の需要が高くなってきたのに目をつけ、輸入葡萄酒を再製した日本人の口に合う甘い葡萄酒を製造しました。
これが大成功をおさめ、1886(明治19)年「蜂印香竄葡萄酒(はちじるしこうざんぶどうしゅ)」として世に知られることとなったのです。

傳兵衛はこの成功に満足せず、やがては葡萄栽培からワイン醸造までを一貫して行える一大事業を起こしたいと考えていました。

※神谷バーとは・・・
神谷バー(かみやバー)とは、東京都台東区浅草1丁目にある、日本最初のバー。神谷商事株式会社が運営する。
電気ブランで有名。浅草の文豪たちにも愛された。木下杢太郎は電気ブランより薄荷酒はっかざけを好んだ。

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